やけ酒の代償(2)
ピートはよろけて道のまんなかに出ると、ゆっくりと横向きに倒れた。そのまま動かないので、メリッサが心配して近づくと、すでにいびきをかいている。
「ピート、起きてよ。こんなところで寝てちゃだめよ……馬車にひかれるか凍死するか、どっちにしろいいことないわよ」
そう言いながらピートの体をゆすると、むにゃむにゃ言いながら目を開けた。そしてどうにか起きあがったが、立ち上がれない様子だ。しかたなく、メリッサは手を貸して彼を立ち上がらせた。ピートはメリッサにつかまって、なんとか歩いてはいるが、意識ははっきりしていないようだ。
このあとどうしたらいいのだろう。放り出していくわけにもいかず、かといってピートの自宅を知らないので、送っていくこともできない。困ったメリッサは結局、すぐ近くの自分のアパートまで、彼を引きずるようにしてつれていったのだった。
隣近所の人の目が気になったが、夜遅いので誰にも出会わなかった。メリッサはほっとしながら、ピートを玄関の中に引っ張り込んだ。しかし居間のソファまでたどりつく前に、彼女自身も力尽きてしまい、床の上にピートを転がすだけで精一杯だった。
「ああ、重かった〜」
呼吸を整えながら、ピートの様子をうかがう。床にあおむけに寝たまま、動かない。メリッサは暖炉に火をおこし、毛布を探して持ってきた。するとピートは小さい声でなにやらねごとを言っている。
「兄貴……バカ……」
ああ、やっぱりおにいさんのこと……。
「サラ、それは俺が……ああ……警部これです……それは……違う……」
なんだか知らないが、次から次へとぶつぶつ言っている。なんの夢を見ているのだろう。メリッサは同情を通り越して呆れてしまった。
毛布をピートの横に敷き、反対側からよいしょと彼を押すと、寝返りを打つように転がり、みごとに毛布の上に乗った。体の上からももう一枚毛布を掛ける。これでたぶん風邪をひかずにすむだろう、とメリッサは思った。そこで、自分の毛布を寝室から持ってきて、それにくるまりながらソファに腰をかけた。これなら、もし夜中にピートが目を覚まして騒ぎだしても、すぐ対処できる。
ピートはまだなにかつぶやいていたが、閉じた目から涙が一筋流れている。それを見たメリッサも涙が出てきた。
さっきのあの言葉、酔っていないときに言ってくれれば、とても嬉しかったのに……。そうだったら、あなたを突き飛ばしたりはしなかったのに。
「ねえピート……なにがそんなにつらいの? どうしてひとりで全部抱え込んじゃってるの?」
メリッサは泣きながらピートに話しかける。聞こえてはいないと知りながら。
「そんなの……無理したってちっともかっこよくないんだから……誰かに助けてもらえばいいのに……」
自分では役に立たないだろう。でも、ウォルターだって、ギャラハンだっているし、グレゴリー警部だって頼りになる人だ。
「見ているだけで私もつらいのよ……どうしたら、あなたの気持ちが楽になるのかしら……」
返事はない。ピートは完全に熟睡しているようだ。ねごとも聞こえなくなった。メリッサはため息をつき、目を閉じた。
目覚まし時計が鳴った。気がつくと、もう外が明るい。メリッサはソファから飛び起きた。
ピートはまだゆうべと同じ格好で床に寝ている。声をかけてみたが、起きる気配がない。
「これは、無理ね……」
メリッサはあきらめ、出勤の支度をした。出かける前に、バナナとティーカップと紅茶のポット、走り書きした短い手紙、それにアパートの鍵をテーブルに置き、念のため暖炉の火を消した。そして引き出しからスペアキーを取り出し、部屋を出て鍵をかけた。
少し寒さを感じたピートは目をさました。ひどい頭痛がする。
見知らぬ部屋の床に寝ていることに気がつくと、あわてて立ち上がった。
ここはどこだ? なぜこんなところにいるんだ? ピートは思い出そうとしたが、ゆうべの記憶がはっきりしない。フロンティア・パブから追い出されたあたりまでは覚えているが、そのあとなにがあったのだろう?
まわりを見回すと、テーブルの上に、バナナやカップに混じって置き手紙があるのに気がついた。
おはようございます
ゆうべは飲み過ぎ。体に悪いからもうやめてね
食べられそうだったら、バナナをどうぞ
出て行くときは鍵を閉めてください
できれば近所の人に見られないようにお願いしますメリッサ
「メリッサ……?」
ここはメリッサの部屋か? なんの冗談だ?
ピートは焦った。一生懸命ゆうべの出来事を思い出そうとした。そういえばメリッサに会ったような会わなかったような……。しかしどうしてこんなことになったんだ? フロンティア・パブで酒を飲んで、それから家に帰ったはずなのに。……だめだ、何も覚えていない。
メリッサはどこに行ったのだろう。ピートはテーブルの上の時計を見て、理解した。もう、仕事が始まっている時間だ。
頭痛と吐き気がいくらかおさまってから、ピートはこっそりアパートを出た。アパートのほかの住人には会わなかった。これじゃまるでこそ泥だな、と苦笑する。まず自分のアパートに帰り、服を着替え、きちんと身支度をととのえてから、王立警察本部に向かった。
第二捜査室の前の廊下に来たとき、ウォルターに会った。
「あれ、ピートきょうは休暇とったんじゃなかったっけ?」
「あ……ああ、休暇だけど、ちょっと……」
「なにか忘れ物かい。じゃあな」
ウォルターは行ってしまった。ピートは第二捜査室のメンバーを見つけ、声をかけた。
「ジョン、メリッサはいるかい?」
ジョンと呼ばれた男は部屋の中に向かって叫んだ。
「メリッサ、ピートがおまえに用があるらしいぞ」
……大きな声で呼びやがって……注目されてしまうじゃないか、とピートは焦った。
メリッサが廊下に出てきた。すまし顔だが、かなり緊張しているのがわかる。顔色が悪く、なぜか目の下に隈ができているようだ。ジョンが部屋に入っていくのを見てから、ピートは口を開いた。
「メリッサ、あ……あの、今朝は――」
「鍵は持ってきてくれた?」
と、小声でメリッサは言った。
「ああ、ここにある」
ピートはポケットから鍵を取り出し、メリッサに渡す。
「ありがと。……勤務中だから、話はあとで……今日は休暇だそうだけど、もしあなたがまだここにいるのなら、昼休みに喫茶室に行くわ」
「わかった……待ってるよ」
たしかにここでは話ができない。ピートはおとなしく待つことにした。喫茶室で時間を潰しても、昼休みまで一時間くらいなので、すぐだ。
熱いコーヒーをすすりながら考える。メリッサのあの表情……俺はいったいなにをしでかしたんだろう? だんだんと恐ろしい想像をはじめてしまう。……いや、メリッサからちゃんと話を聞くまでは、やめておこう。なにしろ、頭の中にはまったくなにも記憶が残っていないのだ。
目の前に誰かが立った。メリッサかと思って見上げると、ジェニファーだった。けがから復帰してまもないジェニファーは、なぜかおそろしい形相でピートを見下ろしている。いやな予感がした。
「や……やあ、ジェニファー。なにか――」
「ピート、あなたって最低ね!」
いきなりこれだ。いかにもジェニファーらしいが、ピートにとっては話が見えていないので困る。
「……なにを知ってるんだ、ジェニファー」
「なにをって……あなたのバカさ加減をね、メリッサから聞いたわ。人に迷惑かけるのもいいかげんにしてよ」
自分よりも先にジェニファーが知っている。しかも、ものすごく怒っている。状況は極めて不利だ。
「じつを言うと、何も覚えていないんだ……かなり酔っていたらしい」
「ふうん……覚えていなければ責任はないとでも言うの?」
「違う! そういうつもりじゃなくて……いや……頼むから教えてくれ。俺はいったいなにをしたんだ」
ジェニファーに頭を下げるのは悔しいが、この際しかたがない。
「本当になにも覚えていないのね。じゃ、教えてあげる」
ジェニファーはピートの向かいに座った。
「朝、メリッサの様子が変だったのよ。目の下に隈つくって、沈んだ様子で……はじめはなんでもないって言ってたけど、そのうち涙ぐんできちゃったから、休憩に連れ出して話を聞いたの」
「それで?」
「ゆうべ遅く、仕事の帰りに道でピートに会ったんですって。泥酔していて、なにを思ったかいきなりメリッサに求婚したそうよ」
ピートは飛び上がるほど驚いた。
「なっ、なにを――」
「そのうえあやうく唇を奪われそうになったから、突き飛ばしたらそのまま道に寝ちゃったって……まったくしょうがないわよね」
ジェニファーは思いっきり軽蔑したような目でピートを見ている。ピートはもう、まともにジェニファーの顔を見ていられなかった。顔を真っ赤にして、唇を噛んでいるしかなかった。
「でもそのまま放っておいたら凍死しちゃうから、自分のアパートまで連れて行って介抱してあげたんですって。朝になってもあなたが起きないから、寝かせたまま出勤してきたそうよ」
ようやく、状況が見えた。そういうことだったのか。……まちがいを起こす寸前で、なんとか回避されたようだ。良かったと言うべきか、悪かったと言うべきか。
「さて、スタンリー巡査はどう責任をとるおつもりなんでしょうね」
意地悪くジェニファーが言う。
「どう責任を取るって……それは……あ、謝って……」
「謝ればそれで済むと思っているの? メリッサはとっても傷ついたのよ!」
ジェニファーの言うことはわかるが、どうしろと――。
「ジェニファーもうやめて!」
メリッサの声。いつのまにか、ふたりの横に立っていた。
ピートはうわずった声で尋ねた。
「メリッサ……い、いまの話はほんとうなのか? ゆうべ俺が――」
「もういいの。ずいぶん酔っていたし……なにも覚えていないんでしょう?」
メリッサは頬を赤く染め、泣きそうな顔で言った。
「私もゆうべのことは忘れるから……もうこの話は終わりにしましょう」
「そんな、一方的に――」
ピートが異議を唱えようとすると、メリッサは涙で潤んだ目をピートに向けた。思わず口をつぐむピート。
「でもお願いだから、やけ酒なんてやめて。早くもとのピートに戻って! ゆうべみたいなのはもういや……」
メリッサはそう言うと、急ぎ足で喫茶室を出て行ってしまった。呼び止める間もなかった。ピートが困惑の表情でジェニファーを見ると、ジェニファーは、
「メリッサがやさしい人で良かったわね。もし私だったら、すぐに上司に訴えて、ここにいられないようにしてあげるわ」
と、きついことを言う。ピートはなにも言えず、下を向いて頭を抱えてしまった。まだ、頭の奥に頭痛が残っている。
「ピート」
ジェニファーの少し口調が穏やかになった。
「メリッサだって、ゆうべはずいぶんつらい気持ちだったと思うの。でも今朝はちゃんと出勤して、仕事もきちんとこなしていたわ。メリッサにできて、あなたにできないとは言わせない。お兄さんのことがあなたにとってどれほどの痛手なのか、私にはわからないけど、人は誰でもなにかしら重荷を背負っているのだから……メリッサのいうとおり、早いところ、もとのピートに戻ってよね」
ジェニファーの言うとおりだ。なんと情けないのだろう。こんなことではだめだ、とても人の上に立つ人間にはなれない。今まで自分は優秀な部類の人間だと思っていたが、とんでもない勘違いだ。思い上がりだ。
ジェニファーが立ち上がった。ふと、ピートは彼女に問いかけた。
「ジェニファー、きみもそうなのか……重荷をせおっているのか?」
ジェニファーはピートを見つめ、それからどこか遠くを見ながら微笑した。
「……まあね」