ピートおじさん

 

 ある秋の日の朝。ピート・スタンリーはレドウェイト警部の机の前まで行き、こう言った。
「警部、すみませんが、今日、昼から休暇をください」
 レドウェイト警部は眉をひそめた。
「……兄さんのぐあいが悪いのか?」
「いえ、兄は小康状態です。義姉が出産したんです。けさ連絡がありました」
 このやりとりを聞いていた同僚たちは、口々に騒ぎ出した。
「そりゃ、おめでとう」
「ピートもおじさんになったのか」
「甥なのか、姪なのか、どっちだ?」
 ピートは振り向きもせずに答える。
「今は警部と話してるんだ、静かにしろ」
 警部が野次馬たちを一瞥すると、みんなはおとなしくなった。
「無事に生まれてなによりだ。昼からと言わず、今から行ってきたらどうだ。うまいぐあいに室長は朝から出張だし――」
「いえ、今日やっておかなければならないことがありますし……まにあわない分は誰かに引き継いでもらいますが」
「そうか、わかった。おまえらしいな」
「ありがとうございます」

 

 兄のアパートには、義姉のサラと、生まれたばかりの子と、手伝いに来てくれた、近所のグレー夫人がいた。
「ピート、来てくれたのね。忙しいのに……ありがとう」
 サラは、嬉しそうに微笑んだ。少しだけ、疲れた顔をしている。
「遅くなってごめん、サラ。体は大丈夫? 赤ちゃんは元気?」
「ええ、大丈夫よ。ほら、おじさんに顔を見てもらいましょうね」
 サラはゆりかごの中の赤ちゃんに声をかけた。赤ちゃんは眠っている。ピートはそっと近くまで行って覗き込んだ。 
「サラに似て色白だね。目は何色だろう?」
 グレー夫人が答えた。
「サラとそっくりの青よ。大きくなったらすごい美人になるわよ」
「鼻の形は兄貴に似てるんじゃないかな。うわ、指がこんなにちっちゃい」
 姪を見つめるピートは、第一捜査室の誰にも見せたことのないような笑顔を浮かべていた。
「はやく名前をつけてあげなきゃね……デニスは考えてくれているかしら」
 サラの言葉にピートは、
「あとで病院に行って、聞いてみるよ」
と言った。
 

 病院の廊下で、兄の主治医にばったり会った。兄の病状を聞いたピートはまるで自分が死刑判決を受けたような気持ちになった。とりあえず気持ちを落ち着かせるまで、三十分ばかりかかってしまった。
 「デニス・スタンリー」の名札がかかった病室のドアをノックして入ると、兄は起きていて、窓の外を眺めていた。
「兄貴、調子はどうだい?」
 いつものように淡々と、ピートは話しかけた。デニスはゆっくり振り向いた。ピートとよく似た風貌だが、髪の色がピートより少し明るい。彼の顔色は悪かったが、表情はいくぶん明るかった。
「やあピート」
「まずは、おめでとう。父親になった感想をひとこと」
「顔も見ていないので実感がわかないが、うれしいよ」
「悪いな、俺はもう会ってきたよ」
「そうか。どんな子だった?」
 デニスは身を乗り出すようにして尋ねた。
「鼻のあたりは兄貴に似ているけど、あとはサラそっくりだ。色白でやさしい顔してて……眠っていたから瞳の色までは見えなかったけど、青いそうだ」
「サラそっくりの女の子か……」
「名前を考えてくれたかって、サラが言っていたけど」
「名前か……ゆうべ、子どもが生まれたという電報をもらったとき、ここから月が見えた。とてもきれいだったんだ」
 そう言ってデニスはまた窓の方を向いた。
「月の女神の名をもらおうと思う……ダイアナという名を」
「ダイアナか……いい名前だね。わかった、サラに伝えておくよ」
 窓の方に顔を向けたまま、デニスは、
「いつごろ会えるんだろうな……」
とつぷやいた。
「じきに会えるよ。赤ちゃんが……ダイアナが外出できるようになったら、俺がふたりを連れてくる」
 ピートはそう答えた。はやいところそうしなくてはならないと思いながら。
 ピートのほうに向き直ったデニスは、弟をじっと見つめて言う。
「なあ……どうして俺だったんだろうな……おまえでなくて……。もしおまえだったらまだまだ元気で……」
「兄貴! もうその話はおわったはずだ! サラは兄貴を選んだんだから……い、いまさら……そんなこと言ったって……」
「すまない、ピート」
 デニスは視線をそらし、ため息をついた。
「だいたい、そんな弱気でどうするんだよ。子どもが生まれたんだから、はやく元気にならなきゃだめだろ」
「いや、子どもが生まれたから……だからこそ、俺がいなくなってからのことを考えておかなくちゃだめなんだ」
 デニスはそう言った。ピートは言葉が出なかった。兄ももう自分の病状の深刻さに気づいているのだろう。
「もしサラが実家に帰りたいと言ったら、そうできるように手助けしてやってくれ。誰かと再婚するなら祝福してやってくれ。……おまえにもいろいろ思うところはあるだろうが、あのふたりの幸せを第一に考えてやってくれ。頼む……」
 ピートは返事をしなかった。サラは実家に帰りたいなどというだろうか? 誰かと再婚だって? ……兄貴はサラのことをわかっていない。彼女はそんな人間じゃないのに。それとも、わかっていて――。
 考えているうちに、胸が締めつけられるように苦しくなってきた。どうして自分がこんな思いをしなくてはならないのだろう、と苛立ちを感じた。
「ピート……聞いているか? どうした……?」
 デニスはピートの方を見た。
「そんな話……聞きたくない」
 ピートは吐き捨てるように言う。
「自分でサラに言えばいいだろう! こんど連れてくるよ。その時に言え。俺には関係ないんだ、そんな話しないでくれ!」
「ピート……」
 デニスの驚いた顔を見て、ピートはわれに返った。
「ごめん……俺……つい」
「いや……悪かった。おまえのいうとおりだ」
「兄貴……」
 だめだ。これ以上つまらないことを口走らないうちに帰ろう。ピートはそう思った。
「俺こそ、ごめん。ちょっと仕事が忙しくていらいらしていたんだ……もう帰るよ。名前のことはサラに伝えておく。役所への届けも出しておくよ」
「ピート……なにからなにまで世話になってすまない。おまえも体に気をつけてくれ」
「ああ、ありがとう。それじゃ、また」


 病院の外に出たピートは、煙草に火をつけた。
 ……最悪だ。最初に主治医に会ってしまったのが運のつきだった……。しかし、さらに地獄が待っている。これから戻って、どんな顔でサラに話をすればいいのだろう。
 そのとき、
「ピート? こんなところでどうしたの?」
と、どこかで聞いたような声。振り向くと、メリッサがいた。
「どこかぐあい悪いの? 大丈夫?」
「いや、兄貴の見舞いに来ただけだ。きみこそどうしたんだ」
 メリッサは、ほっとしたような表情になった。
「私、時々胃の調子が悪くなるの。それで薬をもらいにきたのよ。ほら」
 そう言って大きな薬の袋を見せる。
「それじゃ、またあしたね」
 帰ろうとするメリッサをピートが呼び止めた。
「メリッサ、もし暇だったら――」
「え、なあに?」
 振り向くメリッサ。
「あ……いや……なんでもない。……またあした……」
 メリッサはちょっと首をかしげたが、微笑を残して行ってしまった。
 軽く一杯つきあってくれないかなんて、あやうく言いそうになってしまった。たったいま、胃が悪いと言っていたばかりなのに。やっぱりきょうは調子が悪い。なるべく早く帰って寝よう。
 ピートは煙草をくわえたまま、歩き出した。

ためしに拍手ボタンつけてみました。なにか言いたいことがあったらクリックした次の画面でどうぞ↓ 

拍手する

 

二次創作コーナートップへ  エントラ拾遺物語トップへ