ホワイトさんが知らなかった事実

 

 町はずれの橋の上。日がとっぷり暮れて、街灯の明かりが輝きを増したように見える。
 明かりを反射させてきらきら光る川面を、ぼんやり眺めている女性がいた。成金趣味の派手なドレスと、やたらに光るアクセサリーを身にまとった若い美女だ。
 やがて、そこにひとりの男が近づいてきた。夜の闇に溶け込みそうな黒いスーツと黒い帽子の男だった。彼は女のとなりに立ち、彼女と視線を合わせずに川を見ながら話しかけてきた。
「今夜のテムズ川は流れが速いな」
「ええ、そうね。時の流れも速いけど」
 それが合言葉だった。美女は顔をあげて男を見た。
「誰にもあとをつけられていないでしょうね」
「いまのところはな」
「それじゃ、案内するわ。並んで歩いてね」
 男は女の肩に腕を回した。美女は微笑んで、ゆっくり歩き出した。
 大きな教会の横の大通りを行く。やがて、公園が見えてきた。
「この公園の真ん中に噴水があるの。そこであの人が待っているわ」
 公園の中は街灯が少ないので、大通りよりも暗い。
「意外だな。大邸宅にでも連れていかれるのかと思っていたが」
「しじゅう警官が監視しているから、あなたのような人が出入りしたら目立つのよ。ここなら三時間かそこらは大丈夫」
「なるほど」
「今回の取引でお互いが納得したら、次はもっと量を増やしたいって彼は言ってたわ。最近じゃ、定期的に仕入れできるところが少なくなっているから」
 噴水が遠くに見えた。そのそばに、誰かが立っている。どうやら取引相手の男性のようだ。黒いスーツの男は、少し足を速めた。
 そのとき、近くの茂みのあたりから、小さなくしゃみのような音が聞こえた。男ははっとして足を止め、鋭い目で音のした方向を睨む。
「どうしたの?」
「そこに誰かいる」
「……猫かなにかじゃない?」
 男は懐から拳銃を取り出して構え、茂みに近づいて行った。
「出てこい! そこにいるのはわかってるんだ」
 茂みは静まり返っている。
「ねえ、やっぱり気のせいでしょう」
 女がそう言うと、男は、
「いや、確かに誰かいるはずだ」
 男は引き金にかけた指に、力をいれた。
「だめっ!」
 女の声と銃声が聞こえたのは同時だった。茂みからひとりの男が飛び出してきた。それと同時に女が男の腕を後ろから押さえようとした。男は乱暴に女をふりほどき、目の前の男と格闘をはじめた。
 すると、どこに隠れていたのだろうか、公園のあちこちから、数人の男たちがいっせいに駆け出してきた。噴水のそばにいた男もやってくる。
 二人の男がもみあうなかで、もう一度発砲音がした。茂みから出てきたほうの男はなんとか拳銃をとりあげ、ふたたび奪い返されないように、急いでそれをうしろに放り出した。スーツの男は形勢不利と見て、一目散に逃げ出そうとした。しかし彼を取り囲むように数人の男たちが追いつき、取り押さえてしまった。
 そのとき背後で叫び声が上がった。
「ジェニファー!」
 最初に茂みから出てきた男が、倒れた女のそばにかがみこんで、彼女の体をゆすっている。
「どうした?」
 噴水のところにいた男が、急いで駆け寄っていった。薄明かりのなかで、女の顔の左半分が血まみれになっているのが見えた。

 

 数時間後、病院の待合室では、ウォルターが長椅子に座っていた。祈るように両手を組み、うつむいている。
「ウォルター」
 呼ばれて彼は顔を上げた。隣の部署のメリッサがいた。走ってきたのだろうか、息を切らし、顔を紅潮させている。
「ジェニファーが撃たれたってほんとなの? ど、どんなぐあいなの?」
「まだなんとも……」
 ウォルターは小さな声で答えた。メリッサは彼のとなりに腰をおろした。
「どうしてそんなことに……」
「俺のせいだ……俺がしくじって……」
「どうして! どうしてあなたなの? どうして……ピートやギャラハンじゃなくて……」
 メリッサは半分泣きながら叫ぶ。
「ピートはドジを踏んだりしない。ギャラハンは公園の入口で一般人を追い払う担当だった」
「そんなことをいっているんじゃないわ! どうして――」
 そのとき医師が手術室から出てきた。ウォルターとメリッサは立ち上がった。
「先生――」
 医師はふたりを見て淡々と言う。
「大丈夫、命に別状はありません。ただ、左耳の損傷がひどい……」
「耳……」
 メリッサがつぶやいた。
「ほとんど吹き飛ばされていてね……。聴覚に障害が残ることも考えられますね」
「ああ……なんてことだ……」
 ウォルターは、そのまま長椅子に沈み込んだ。メリッサは両手で顔を覆った。

 

 上司が配慮してくれたので、ジェニファーを見舞いに行く時間ができた。ウォルターは花とお菓子を持って、病院に出向いた。しかし気持ちは重かった。彼はドアの前で一瞬ためらい、ため息をついてから、ゆっくりノックした。
「はぁい、どうぞ」
 いつもの明るい声が――いくぶん声量は小さかったが――聞こえてきた。ウォルターは病室に入り、悲痛な表情でジェニファーを見た。
 彼女はベッドの上で身を起こし、本を手にしていた。頭と、目をのぞいた顔の左半分が包帯で隠れている。
「ウォルター! 来てくれたのね。嬉しいわ、すごく暇だったの」
 ジェニファーは痛々しい姿に似合わず、本当に嬉しそうに言い、本を閉じてサイドボードに置いた。
「やあ……ぐあい、どう?」
「ありがとう、だいぶよくなったわ。痛みはまだあるけど、食欲も出てきたし……でも寝てばっかりで食べると太っちゃうわね。ここでは歌の練習するわけにもいかないし」
 そう言って笑う彼女を見ているウォルターの表情は、ますます暗くなっていった。
「ジェニファー……その……申し訳ない、俺のせいで……きみにけがを……」
「全員並ばされて、たっぷり叱られたって聞いたわ。ごめんなさいね、私だけこんなところでのほほんと寝ていて」
「き、きみがあやまることないじゃないか! 俺が悪いのに……ねえ、なんでそんなににこにこしてるんだ。俺のこと怒らないのか? ……責めないのか?」
「どうして私が? もう、室長に叱られたんでしょ?」
 ジェニファーは、きょとんとした表情でウォルターを見た。
「だ、だって……俺が……俺があいつのもっていた銃の向きを変えたから、きみに弾があたって、耳――」
 あわてて口を押さえるウォルター。
「……ああ……そうか……それであなたそんな顔してるのね……」
 ジェニファーは得心がいったという顔で、静かに答える。
「ウォルター、それ……思い違いよ。あなたが銃口の向きを変えてくれたから、私は耳のけがだけですんだんでしょ?」
「……え?」
「あの男の銃口は私の心臓を狙ってたんだもの。ウォルターのおかげで命拾いしたのよ」
「……嘘だ……銃口は俺の方を向いて――」
「いいえ、私の方を向いてたわ。落ちついてよく思い出してみて」
 ウォルターは困惑してジェニファーを見つめた。
「だって……ジェニファー……俺……」
「思い出せない? でも、とにかくそうだったのよ。だからあなたは私の命の恩人なの。ありがとう」
 ジェニファーはまじめな顔でウォルターを見つめ、そう言った。
 ウォルターは少しのあいだ、何も言えずに口をぱくぱくしていたが、突然ジェニファーの手をとり、強く握った。
「ジェニファー……許してくれるのか……こんな俺を……あ……りがとう……すまない……」
 やっとのことで、彼は震える声を出した。
「ち、ちょっとウォルター……やだ、どうして泣くの?」
 ウォルターはとうとうすすり泣きをはじめた。ジェニファーはとても困った顔をしたが、握られた手をそっと握りかえしてきた。
「ねえ泣かないで……私まで泣きたくなっちゃうわ。ウォルター、私は大丈夫だから、あなたこそあまり思いつめないで――」
 そのときドアが開いて、医師と看護婦が入ってきた。彼らは目を丸くして、ただならぬ様子のジェニファーとウォルターを見た。焦るジェニファー。
「あ、あの……これはその、ですね……」
 ジェニファーはウォルターに囁いた。
「ウォルター、ねえもうやめてよ。まるで私があなたをいじめてるみたいじゃない」
 顔をあげたウォルターは、そこで初めて医師達に気づいた。急いで涙を拭く。
「あ、ど、どうも。回診ですか。すみません……じゃ俺、きょうはこれで帰るから。また来るよジェニファー、お大事に」
 ウォルターはひどく慌てた様子で、そして気まずそうにしながら医師たちの横をすり抜け、病室から出て行った。ジェニファーはその場を取り繕うように、医師たちに笑顔を向けた。
 

 

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