刑事と賛美歌
 

 ジェニファーにとって、はじめての「非番の日曜日」だった。寝坊しても良かったのだが、なんとなくいつもと同じ時間に目が覚めた。そこでいつものように朝食をとったあと、のんびりと散歩にでかけた。
 アパートの前の道を、通勤の時とは反対方向に、ずっと歩いてみる。道に迷うのは得意なので、またホワイトさんの世話にならないように、曲がらずにまっすぐ行った。まっすぐ行ってまっすぐ帰ってくれば、絶対大丈夫なはずだ。
 ずっと行くと、どこからかかすかに歌が聞こえてきた。数人で合唱している声だ。耳をすませて聞くと、どうも賛美歌のようだった。近くに教会があるのだろうか。
 子どものとき、地元の教会の聖歌隊に入って歌っていたのを思い出した。あのころは毎日学校が終わると教会に走っていき、日が暮れるまで賛美歌を練習していたものだ。父が死んでからはいろいろと忙しくなり、聖歌隊をやめた。いや、忙しいというのは言い訳だ。本当の理由は、歌っていると、自分の歌をほめてくれた父を思い出して涙が出てきてしまうからだった。
 そしていつのころからか、教会自体からも足が遠のいてしまっていた。
 思い出にひたりながら歩いているうちに歌声は大きくなり、やがて通りに面した教会が見えた。門の横に掲示板がある。礼拝の案内や、バザーのお知らせや、半年ほど先に行われるチャリティーコンサートの合唱者募集のポスターが貼ってある。
 ジェニファーは、歌声を聞きながらそれを見ているうちに、自分も歌いたいという気持ちになってきた。もともと歌うのは好きなのだ。ずっと歌えなかったが、大人になった今なら、涙をこぼさずに歌えるだろうか……。
 合唱者募集のポスターには、練習日時や曲目が書いてある。勤務の都合があるから、ちゃんと練習に出られるかどうかは怪しい。むしろ、ほとんど出られないのではないだろうか。でも、曲目は知っているものが大部分なので、なんとかなるかもしれない。
 ジェニファーが掲示板を眺めているうちに、何人かの人たちが彼女の横を通り、教会の門を通って入っていった。これから礼拝が始まるのだろう。ジェニファーも、彼らに混じって教会に入っていった。これもなにかの縁、せっかく日曜日の非番なのだから、礼拝に出てみようと思ったのだ。
 牧師の長い話も、あまり退屈にならずに聞くことができた。久しぶりだからかもしれない。
 賛美歌を歌う段になって、みんなが椅子から立ち上がった。ジェニファーも立ち上がり、姿勢をまっすぐに保ち、慣れた手つきで楽譜を持った。
 オルガンの伴奏が流れ、みんなが一斉に口を開く。静かな、シンプルなメロディー。
 そう、この響き、この空気はほんとうに久しぶりだった。ジェニファーは嬉しくて、遠慮をやめて本気を出して歌った。横の人が、ちらっとこちらを見た。
 一曲目は夢中で歌っていたが、二曲目の時、よく通るすばらしいテノールの声が聞こえてくるのに気づいた。二列前の端にいる人の声のようだ。ここからはよく見えないので、どんな人なのかはわからないけれど。
 歌が終わってみんなが着席する。まわりの人が座ると、さきほどのいい声の男性の後ろ姿がちらっと見えた。
 ……あら? あの人、どこかで見たような……。
 視線を感じたのだろうか、不意に彼が後ろを向いて、ジェニファーを見た。
 ジェニファーも、相手も同時に驚いた顔。美声の主は、ウォルター・レインだった。
 

 礼拝が終わると、ウォルターが近づいてきた。
「こんなところで会うなんて思わなかった。聞き覚えのないきれいな声が聞こえるなあと思ってたけど、あれはきみだったんだね」
「私……賛美歌を歌うのは十何年ぶりなの。教会に来たのもすごくひさしぶりで……はずかしいわ。あなたはいつも来てるの?」
「まさか。仕事が休みの日は時々顔出すけどね。俺、小さいころからここの聖歌隊にいたんだ。警官になるとき、やめたけど」
「そうだったの。それであんなに歌がじょうずなのね」
「じょうずじゃないよ。でも、ありがとう。気がむいたらまた来てくれよ。平日もいろんな活動してるよ。じゃ、また」
 そう言ってウォルターは教会の外に出て行った。
 さあ、これからどうしよう。まだ、時間はたっぷりある。また、まっすぐ道を進んでいこうかしら。
 ジェニファーは教会を出た。入口の階段の下にウォルターがいた。何人かの子どもといっしょに、箒やぞうきんを持って歩いている。ジェニファーはちょっと考えたが、ウォルターたちのほうに歩いていき、掃除の手伝いを申し出た。


 朝の第一捜査室。窓際でゆっくり煙草を吸っているピートは、平然を装いながらも、内心は驚いていた。まさか、あのふたりがほんとうにつきあうとは。
 先に出勤してきたのはウォルターだった。第一捜査室の連中が、彼のまわりに群がっていった。
「おはよう。え? な、なんだい?」
 異様な空気に気づいたウォルターは、不安そうにまわりを見渡す。誰かが聞いた。
「ウォルター、おまえきのうジェニファーとデートしたんだって?」
「ええっ? ああ……違う違う、教会でばったり会って、いっしょに掃除してお茶飲んだだけだよ。でもなんで知ってるんだ?」
「ほんとにそれだけか?」
 おいおい、こんなことで尋問するなよ……とピートは思ったが、口を出さず成り行きを見守ることにした。嫌な奴だな、自分は。
「それだけか、って……あと、チャリティーコンサートの合唱に誘ったら、参加してくれるって」
と、ウォルターは答えた。
「あ、そうだ。みんなもよかったら――」
 そこにジェニファーが入ってきた。みんなの視線がいっせいに向き、ジェニファーも驚いた様子だ。しかしその直後、警部たちがやってきたので、みんなはあわてて自分の席に戻った。ピートも煙草の火を消して、自分の机の上にある提出書類を手に取った。グレゴリー警部に書類を渡したとき、警部が小声で聞いてきた。
「なにかあったのか? なんだかざわざわしていたようだが」
「いえ、べつになにも」
 ピートは淡々と答えた。


「ふしぎだけど、こういうことはすぐに噂になっちゃうのよね。誰がどこで見ているのかしら、まったく」
 メリッサはあきれ顔で言った。ジェニファーはただ微笑した。
「ウォルターはとても歌がうまいの。やわらかい声質のテノールで……」
「それで、あなたも合唱に参加することにしたの?」
「ええ。もう十年ぶりくらいだから全然声がでないけどね。なんとかするわ」
「がんばってね。仕事の都合がついたら聞きに行くわ」
「ええ、ぜひ。というのもね、その教会の聖歌隊出身という縁で、あのピーター・ペアーズが何曲かソロで歌うんですって。すぐ近くで彼の歌が聴けるなんてすごいわ」
「それ誰?」
「最近人気の若手歌手よ。知らない?」
「ごめん知らないわ。……でも楽しみにしているから」
 なんだか楽しそうに話すジェニファーを見て、メリッサは思った。よっぽど歌うのが好きなのだろうか、それともほかに理由があるのだろうかと。
 

 

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